苦手を支え合うことと、いろんな生き方があるよってこと。
人って苦手なことがどうしてもあるものです。
性質的になかなかうまくいかないとか、メンタルや身体的な理由があったり。
「社会人たるもの、働いて社会貢献すべき」なんて退職した主婦に余計な世話を焼いたり、「男たるものこうあるべき」「淑女たるものこうあるべき」なんていくらでもあります。
そういった意見も一理あると思うし私自身も「このくらいはできないと…」なんて身近な人に思ってしまうことがあります。
ただ人ってどうしてもうまくできないことってあるんです。
やってもなぜかうまくいかないとか、どうしても楽しめないとか。
やっぱり苦手なことはできる人と支え合えばいいと思うんですね。
仕事上のパートナーだったり、戸籍上のパートナーなど何でもいい。
わたしは外で仕事をすることが苦手という人生を送っているので、旦那さんにメインの収入を任せています。
旦那さんはご飯が作れないのでわたしにやってほしい。ついでに子育てや家事もわたしに中心にやってほしかった。
そんなわけでお互いの求めていることが一致して結婚しました。
あ、別に家事が得意なわけじゃないですよ。消去法でこうなっただけです。
多くの実際の夫婦は女性が泣く泣く出産で家中心になってしまった家庭が多いでしょうから、わたしの場合はうまくお互いの凸凹が合致して平穏にいっているパターンでしょうか。
このことはあくまで一例です。
だけどよく聞かれるのが「仕事しているの?」「仕事始めたの?」そういった質問のどう答えていいか迷うことです。
主婦だよって素直に言えばいいんですが、働かないなんていい生活してるなんて思われても嫌だなあという気持ちがモコモコ湧いてきてしまい「探してるんだけどねー」なんて適当なこと言ってる自分に嫌気がさします。
なんでそんな人の反応気にする??
自分で納得して主婦してるんだから堂々としていればいいのに。
ヨーロッパの先進国なんか行ったらもっと主婦率低いだろうし、主婦だなんて言ったら怠け者だと思われるかもしれません。
だから、まだ日本は主婦という地位がある一定の価値を確立しているので生きやすいかもしれないです。いや、そもそも自分がヨーロッパの先進国に生まれていたら主婦になろうともしていないのかも。
もしそんなとこで主婦してたら超生きにくいんでしょうか?日本だけが価値の押し付け合いをしているんじゃないってことが痛いほどわかるんじゃないかなあ。
そんなことを想像したりします。
うろ覚えなんですが養老孟司さんが言っていた言葉があります。縁側や窓際に座って歩いている人に話しかけたり挨拶する老人にも価値がある。そんな感じ。
100歳以上生きているおばあちゃんの石井哲代さんは、早朝に登校中の女子高生に「いってらっしゃい」と家の前で声をかけることが日課だそうです。
しばらく顔を見ないと女子高生がピンポンして生存確認をする。「どうしたのかと思った」と心配して。めちゃくちゃ微笑ましいですよね。
もちろん石井さんのようなおばあちゃんはお仕事をしているわけじゃないけど、かけがえのない愛情を他人に与えています。
もしその行為がある意味価値を持っているとするなら、それってものすごいキラッキラの価値じゃないですか?
石井さんのような方を思うと、価値ってお金を生み出すこと、得ることだけではないんだと心底思います。
なんだろうな、何が言いたいかというと主婦していることを負い目に感じたりする必要はないということ。
子供の近くにいる、子供がもしいなくても台所の蛇口をせっせと磨いている。それってお金は生み出さなくてもすごい大切な「価値ある行為」です。